「ドーハの悲劇」森安選手が監督でドーハに
サッカー不毛の地であった野球王国日本にプロリーグ(Jリーグ)発足2年目の1993年10月オフト監督(スペイン人現在75歳)率いる日本は悲願のW杯出場にアジア最終予選首位で勝てば初のW杯出場の地位で、最終戦はカタールのドーハで迎えていました。最終イラク戦のロスタイムで同点とされ順位が3位となり悲願達成ならず「ドーハの悲劇」として語り継がれています。当時中盤(MF)として戦っていたのは森安監督です。当時監督を務めたオフト監督はピッチに座り込む選手一人一人の手を取って立ち上がらせた光景は今も思い起こします。その年の12月に発売されたオフト監督の本を買って「年末の休日」に読んだ記憶が蘇ってきます。当時の三浦和、武田、ラモスなどの記憶の中に「森安」の名は刻まれていませんでした。当時3位であった韓国は2位となり奇跡のW杯出場であったとあります。当時、韓国はサッカーのアジアの雄でした。日本は野球に対抗できるスポーツとして欧州地域のクラブ組織を参考にしたJリーグが発足(1991年)の途上でした。地域コミュニティのプロスポーツとして徐々に日本の各地に広がり30年、日本の選手も欧州のクラブに移籍し活躍するまでに成長しました。2022カタール大会に選ばれた26人の20人は欧州のプロで活躍するメンバーで構成されています。
サッカーW杯は世界最大の競技スポーツの祭典
サッカーは210カ国の地域で、多くの選手によってプレーされ、4年に一度一カ月に及ぶFIFAワールドカップのテレビ視聴者数は全世界で310億人超える世界最大のスポーツの祭典です。W杯出場までに各地域で厳しい予選が行われ、32チームが地域・国の代表としてカップを目指します。サッカーは一つのボールで競い合える競技で英国のフットボール競技として始まり、貧困国にも広がり地域や国を背負って競い合うスポーツでオリンピック以上の視聴者を引き付けます。どの国に行ってもサッカー競技はあります。今、日本の地方地域にもプロサッカー組織がJ1-J2-J3のリーグ&下部組織が発足しています。最近では大阪で東大阪にJ組織が誕生しようとしています。資金力・運営力・観客動員数などのハードルがあります。
7大会連続出場の日本は徐々に強くなった
ドーハの悲劇(1993年)から29年日本は徐々に世界に近づき、1998年ワールドカップフランス大会に初めて出場しました。 フランス大会出場は監督交代の試練を乗り越えて岡田監督が抜擢されて悲願の逆転劇で出場が決まりました。それからアジア予選を何とかクリアして7大会連続出場を果たしました。サッカーでは監督の交代劇はしばしば見られます。日本の頂点サッカーも監督の交代は何度か見られました。森安監督はJリーグサンフレッチェ広島の監督として実績を上げ、今、W杯日本代表、オリンピック代表の監督を務めています。今回のW杯でも選手の起用、戦術において監督の評価が挙げられています。決勝トーナメントの戦いを期待しています。