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バイデン大統領「専制主義と自由主義の闘い」

日米首脳会談の共同声明で「台湾」に言及

1億人の共産党員で14億人の民と広大な中国領土を支配している習近平主席率いる専制主義国家は、一帯一路構想を掲げて世界制覇に向かって「強国中国2025」を掲げて突き進んでいます。中国の野望は留まることなく、経済・軍事の強国を目指し、世界に影響力を強めています。世界3位の経済国日本は隣国として、鄧小平主席の改革開放政策を支援してきた日本は経済の結びつきは強く、対立することに懸念もあります。

30年前の歴史的転換期から世界が変わる

 ソビエト連邦崩壊、東西冷戦時代の終わり

1985年ソ連最後の指導者ゴルバチョフ書記長はソ連改革唱え、北欧型社会主義の民主化政治体制の改革(ペレストロイカ)を提唱し旧連邦体制の終焉を迎えていました。1989年にベルリンの壁が壊され、1991年バルト3国独立が起こり、連邦共和国の不満を和らげるため、新連邦条約を締結し改革に舵を切りました。連邦体制崩壊へと繫がり、急な改革にゴルバチョフは保守派の暗殺計画を受けました。

連邦崩壊から30年、ロシアは残された軍事力と石油・ガスの資源に恵まれ、力を成したプーチン大統領の専制主義国家に戻ろうとしています。

文化大革命最中、1972年米中・日中国交正常化

中国共産党を率いる毛沢東政権は、国民党率いる蒋介石を台湾に追いやり国内制覇を図りました。広大な土地と多民族国家の貧困国中国は指導体制の権力闘争も起こり、毛沢東は文化大革命運動(1966年~1976年)を唱え、共産主義の原点に立ち返る運動を、学生・紅衛兵などを先導して党員・文化人・学者なども地方などに送り労働者として追放しました。鄧小平や習近平も地方送りとなり厳しい制裁・圧力を受けたと言われています。 革命の最中、1971年名古屋で行われた卓球大会に中国選手団を派遣、アメリカとのピンポン外交が行われ、1972年ニクソン大統領が訪中国交を樹立、慌てた日本の田中角栄が就任(1972年7月)同月末に国交正常化を決意9月訪中して日中国交正常化の調印を行いました。田中角栄は3日間周恩来首相と向き合い実現しました。この調印で「台湾は中国の一部」とする中華人民共和国側に対して「不可分の一部であることを再確認する」としています。

中国の改革開放政策と天安門事件

 中国の歴代指導者と改革・開放の社会に、文化大革命の終結で復帰した鄧小平は資本主義的手法や外資を導入して経済立て直す政治改革を目指しました。上海など経済特区を造り、西側の資本主義経済を取り入れ、発展を模索しました。日本のODA(開発援助)などの支援を利用して、主力の電源開発、鉄鋼生産など中国成長の技術援助などを行い中国成長の大きな基盤に協力しました。一方で日本の侵略戦争責任を追及し、共産主義と自由主義国家の大きな垣根は今も立ちはだかっています。改革開放で生まれた経営者にも共産党入党認め、外国企業と中国企業との合弁会社で中国企業の成長を造り続けました。生産性の悪い国営企業の改革を実行し、共産党の統制下の中で自由を与え成長を加速させました。

習近平政権の権力集中「強国」2027年に米中GDPは逆転

1989年6月4日 中国天安門広場に民主主義と自由を求めて集結した学生に軍隊が出動して制圧した歴史的事件が起こりました。当時の総書記胡耀邦も認めていた運動に対して、鄧小平は国軍を利用して制圧を支持しました。高度成長を遂げる資本主義政策国家とソ連を含めて共産主義国家の制度が疲弊し崩壊を迎えていました。鄧小平は資本主義社会を取り入れた「改革開放」を提唱して成長を目指しました。巨大国家を統制するには共産党の統制政治の元で改革を進めることを選択しました。中国の若い学生・労働者は、共産党支配の改革を求め、天安門広場に集結し「天安門事件」を起こしました。

中国共産党政治の中で文化大革命・天安門事件は封印され、情報から消されています。

鄧小平は西側諸国の支援を受けながら、安い労働力を活用しながら「改革特区」を増やし徐々に成長を遂げました。2001年WTO(世界貿易機関)に加盟、世界経済の道を開き成長の歩みを始めました。

10年後の2010年に日本を追い越して世界2位の経済国家に成長しました。2027年に米中GDPが逆転すると言われています。