改革開放で急成長を遂げる建国70年の歴史
中華人民共和国建国70年(1949年10月北京)毛沢東率いる中国共産党建国を宣言し、内戦で蒋介石率いる中華民国政府を台湾に追いやり共産党一党独裁政治を行ってきた。台湾は自由主義国家を目指し国民党の支配の中で戦後(戦前50年間日本の統治下)を歩んできた。
中国は建国後、朝鮮民主主義人民共和͡国(北朝鮮)に加担し、65年前(1953年)の休戦協定の後見国となる。1958年工業化に遅れた中国は毛沢東の指示で実施された大躍進政策が失敗に終わると、毛沢東に代わって劉少奇が国家主席に就任し、1962年七千人大会において、劉少奇は「今回の大災害は天災が三分、人災が七分であった」と党中央の責任を認めた。大会の出席者からの批判が毛沢東にも及び「社会主義の経験が不足していた」と自己批判を余儀なくされ、以降政務の一線から退いた。
文化大革命の凄惨な歴史(1966年~1976年)
文化大革命の凄惨な歴史が中国から消える
日本は戦後復興から高度成長期を迎えていたころ
- 1964年 東京オリンピック
- 1970年 日本万国博覧会(大阪)
- 1972年 日中国交正常化(田中角栄)
- 1973年 第一次オイルショック
毛沢東主導の文化大革命(1966年~1976年)副主席林彪(軍人・政治家)と毛主席の妻、江青ら4人組による凄惨な革命運動によって、多数の人命が失われ、国内の主要な文化の破壊と経済活動の長期滞留をもたらした。悲惨な革命運動で、主導していた副主席林彪が毛沢東暗殺未遂、クーデター未遂、亡命未遂事件(1971年9月13日)で死亡、1976年毛沢東死亡で文化大革命が終わる。
高度成長期の日本と隣国中国の国交正常化を田中角栄首相が英断、中国の周恩来首相と胚を交わし
ながら調印にこぎつけたことを記憶している。
凄惨な文化大革命の最中の交渉であったこと、毛沢東でなく周恩来首相の聡明な判断があったことがうかがえる。毛沢東を担いだ4人組にとって難敵は周恩来首相であったことが伺える。
中国共産党の設立指導者毛沢東(1976年9月死亡)、周恩来首相(1976年1月死亡)
1978年改革開放を唱えた鄧小平政策
四川省の裕福な家庭で育った鄧小平は16歳で故郷を離れてフランスにわたり苦学をするが、学校をやめルノーで工員として働く。1922年中国少年共産党に入党、機関誌の作成を担当、フランス政府から危険分子としてみなされ、1926年ソビエトにわたり大学で共産主義を学ぶ。1927年帰国後毛沢東指導のゲリラ活動に参加して失脚、1935年周恩来の助言で復帰し中央委員や副主席に上り詰める。劉少奇と共に毛沢東の政策批判をして、毛沢東から「革命の否定」とされ文化大革命で権力を失う。毛沢東の死後復帰した鄧小平は1978年の共産党全体会議で中国国内体制の改革及び対外開放政策を提唱する。
中国の歴史から消える文化大革命・天安門事件
中国の歴史から消えた天安門事件
毛沢東主席の死、文化大革命の終焉後、鄧小平は中国のリーダーとして改革開放を唱え歩みだしました。総書記であった胡耀邦・趙紫陽などが民主化に傾倒する中、胡耀邦の死後、鄧小平は1989年6月4日、民主化を求めて、中国北京市の天安門広場に集結したデモ隊に危機を感じ軍隊を出動させて弾圧し多数の死傷者を出した事件です。当時趙紫陽が総書記として学生に寄り添い運動を支持して鄧小平に前役職を解かれ亡くなるまで自宅軟禁された。
外国では今も大きな事件として取り上げていますが、中国では事件がなかったことになっています。
香港では毎年6月4日追悼集会が開かれてきました。今年はコロナを理由に集会が認められなかった。
江沢民・胡錦涛・習近平と続く主席
鄧小平の築いた改革開放政策を推進発展
文化大革命で疲弊した中国は、発展する西欧の近代化を目指して共産党の統制生産方式を捨て地域の自主発展の路線「改革開放」を生み出し上海などが急速な近代化の発展を遂げました。上海の指導者江沢民を主席にして更なる発展を試みた。幼少の頃自由な国家フランスにわたり西洋の文化も体験した鄧小平、周恩来は日本の明治大学に学び柔軟な発想を身に着けたと言われている。改革開放40年で驚異的な経済発展を成し遂げた中国の力、14億人の民を生かす鄧小平が示した一人っ子政策による歪みもこれから徐々に表れてきます。急速な成長のひずみを修正しながら国民の不満や要望をどう受け止めていくか試練も待ち受けています。