平成天皇・皇后ご成婚60年の感謝の歩み皇太子時代
1945年太平洋戦争における最後の激戦沖縄陥落、東京・大阪の大空襲、広島・長崎の原爆投下を経て敗戦国となった日本は昭和天皇の玉音放送(8月15日正午 天皇が直接国民に語る)によって敗戦を知らされました。
平成天皇・皇后は其々の疎開先から焼け野原の東京に戻って同じ背景を心の中に刻みました。後に軽井沢のテニスコートの恋を実らせ60年前(1959年4月)にご成婚、戦後復興から高度成長期の初めカラーテレビが広まりご成婚パレードで日本中が感動しました。
皇族の仕来りを破って民間からお妃を選ぶことで、反対や固辞がありましたが乗り越えてご成婚に至りました。新しい皇室が芽生えるときになりました。
昭和天皇は戦争と廃墟となった日本国を憂い、象徴天皇として日本の戦後復興を願って全国津々浦々まで足を運び国民を励まし続け戦後復興の力となりました。 皇太子ご夫婦は天皇の御名代として日本・世界に足を運び日本への感謝を伝えてきました。最後の激戦地となって多くの犠牲者が眠る沖縄への慰霊の旅を復帰3年後から重ねられてきました。
平成天皇・皇后の30年 感謝の歩みをたどる
昭和天皇は崩御前年の昭和63年9月19日に大量吐血なされ、昭和64年1月7日崩御される3カ月間、日本国は昭和天皇のご容態に耳を傾けました。昭和天皇崩御の知らせに日本中が驚き沈みました。
午後2時 小渕官房長官が元号「平成」を発表し平成元年が始まりました。翌日竹下総理は「国の内外にも天地にも平和が達成されるという意味が込められており、これからの新しい時代の元号とするに最もふさわしい」と述べました。
平成天皇はその後の厳しい平成時代を「国民の安寧と世界の平和を願い」続け、3年前、生前退位を望まれ譲位をもって令和天皇に引き継ぎました。日本の象徴天皇として歩む中で85歳を迎え共に支えた皇后と共に上皇ご夫妻となられました。
平成天皇・皇后は国民の安寧と世界平和を願う
平成天皇・皇后両殿下譲位で上皇・上皇后へ
結婚60年皇太子殿下・妃殿下として昭和天皇を支えてこられ、民間から皇室に入られた美智子妃殿下は古式ゆかしい仕来たりの中で、国民生活と近い形に取り組まれ、皇太子を支え、子供を自ら育てられました。平成天皇・皇后となっても常に国民に寄り添って「国民の安寧と平和な社会」を求められました。
しかし、バブル経済崩壊による平成不況が続き、阪神・淡路大震災・東日本大震災など巨大災害にみまわれる平成でした。
天皇・皇后両殿下は被災地に足を運ばれ、被災者に跪いて、被災者の言葉を聞き、勇気を与え励まし続けられました。最初は長崎普賢岳の火砕流の被災地でした。
阪神・淡路大震災では2週間後に被災地兵庫県長田区をマイクロバスに乗って回られ励まし勇気づけられました。長田区の倒壊した菅原市場では皇居に咲く水仙の花を手向け癒す美智子妃殿下を見ました。