首里城の焼失は大きな悲しみ
1429年(室町時代)~1879年(明治12年)の450年、琉球諸島を中心に統治していた琉球王国の首里城は交易の中心地であった那覇港を見下ろす丘陵地を城壁で囲った高台に位置しています。
江戸徳川幕府(1603~1863)の1609年島津藩が琉球へ侵攻統治しました。他国と鎖国の江戸時代は薩摩藩は琉球を経由し、島津印のない交易は認めなかった。
1879年(明治12年)明治政府は琉球藩を廃し藩主を華族として東京に移し沖縄県を設置統治しました。
首里城は琉球王家の居城で首府として栄えました。
首里城は三度にわたり焼失、1715年再建した城は~1945年(太平洋戦争)焼失まで首里城がありました。
戦後アメリカの統治下にあり、1950年(昭和25年)首里城跡に国立琉球大学が開学しました。施政下においても大学は拡大し、1977年~1984年の大学の移転に伴い首里城の再建の機運が高まり、文献資料を基に建築素材を調べ再現して建造され、1992年(平成4年)復元公開されました。その後も継続して関連建造物の復元作業が続けられようやく目途がついた時の出来事になりました。沖縄県民のよりどころである首里城は世界遺産にも指定され、沖縄・日本・世界の遺産をなくし大きな衝撃を受けました。
沖縄は太平洋戦争の敗戦でアメリカの施政下
沖縄は太平洋戦争の最後の激戦区となりアメリカ太平洋連合国軍によって占領されました。
広島・長崎の原爆投下・沖縄の惨状の中で1945年8月15日日本は降伏しました。
沖縄はアメリカの施政下に置かれ、米軍が駐留し、朝鮮戦争・ベトナム戦争・中近東の米軍の軍事基地として歩みました。本土の日本は戦後復興・高度成長する中、沖縄は成長は途絶えて施政下の中で本土復帰を願いました。1972年ようやく沖縄返還がかないました。沖縄県民の再出発はこの時始まりました。沖縄県民の返還前は就職難で県外へ移住し、人口減少しました。復帰後は本土からの移住者が大幅に増えました。
首里城の早期復元を世界が願う
アメリカ合衆国の軍用基地としての長い歩み
首里城の地下壕に日本軍の司令部が置かれ、沖縄の守護を担いました。しかし、敗戦によって占領化され沖縄県民は厳しい環境に置かれていました。
朝鮮戦争(1950年~1953年)に前線基地、1955年頃からベトナムにアメリカが介入、1959年に共産主義国家ホーチミンが発起し南北ベトナム戦争が勃発し、米軍沖縄基地が前線基地として戦線の拠点となりました。
沖縄はアメリカの施政下(植民地)にある地域として対立するソ連・中国などの共産国家の防波堤に韓国・南ベトナムを沖縄から支援しました。
日本はアメリカの同盟国として安保条約を結び協力しました。日本では1960年の「安保闘争」激化が学生を中心に起こっていました。
沖縄は戦後復興も経済成長も出来ない基地の街として耐える日々が想像されます。
揺れる沖縄に首里城の再建が一歩
基地の街から沖縄の人が活躍する街へ
沖縄の中心部の民家密集地にある普天間飛行場の早期移転による危険除去と辺野古移設進行によって沖縄県と政府による厳しい対立の中で起こった、琉球王朝の象徴首里城の焼失は沖縄県民にとって大きな衝撃になりました。
沖縄県知事は一刻も早い再建を誓い、政府も早期再建に全面的に取り組む姿勢を表明しています。
すでに日本国・世界の国からの支援メッセージや募金活動が始まっています。
再建には70億~100億円の資金と資材の調達、人材の確保が求められています。
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